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YUKI『forme』によせて(ばっしー)

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YUKIの『forme』というアルバム、みなさん聞かれましたか?僕はあんなにTwitterで騒いでたのに、KOHHの『Untitled』やBlack Boboiの『Agate』、それからそのブログを書くためにいろいろと作品聞き直したり。そんなことしてたら、2月中旬まで23回くらいしか聞いてない有様だった。



今回のアルバムは細野晴臣から尾崎世界観など本当に幅広い人に作曲をお願いしたようで、それぞれのクセのあるミュージシャンばかりなのですが、そこにボーカルが乗っちゃうとYUKIの曲になってしまうという。やっぱりボーカルとしてのYUKIってすごいなぁと改めて思ったり。


さて、そんな中で今回特に取り上げたい(というか、ほぼ個人の妄言なのだけど)のが二曲目に収録されている『トロイメライ』という楽曲、特にその歌詞についてです。(*レビューやシーンの視点なんてたいそうなものではないです。本当に個人の感想なので、そこだけは) 


https://m.youtube.com/watch?v=jw2bXuDnl1M


実は『トロイメライ』は僕の2018年の年間ベストソング、ぶっちぎりの一位だった。特に次のサビの一節が突き刺さった。


『目が覚めて 朝の陽が その頬を 照らしますように

何度でも 笑うのよ 何度でも 赦されていいから』(YUKIトロイメライ』より)


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この曲は映画「コーヒーが冷めないうちに」の主題歌。

映画のテーマは「後悔を背負って生きること」という感じ。とある喫茶店の一席に座ってコーヒーを飲むと、過去に戻ることができる。ただし、過去を変えることはできず、またコーヒーが冷めるまでに戻ってこなければ、過去に囚われたままになるというルールがある。

登場人物がそれぞれ過去に戻る理由は恋人との関係のもつれ、認知症の妻、事故で亡くなった妹、そして上記のルールで過去に囚われた母に会いたい娘と、設定としてはだいぶベタ。映画のレビューではないので、詳細は省きますが過去に戻った人物は結局同じことを繰り返し、コーヒーが冷める直前くらいに過去に聞けなかった事実を知り、変わらないと分かっていながらギリギリまで過去を変えようとする。過去から戻るとまた新たな後悔を口にすることに。そして、それぞれが新しい一歩を踏み出して、エンディングに。


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例えば、バカッター(インスタグラム版のバカってなんっていうんだろう)、不倫をした芸能人、レイシスト、ミソジニスト、皇室のあれこれ、不正等々。

インターネット以降、毎日のようにこれでもかとややこしい話や許しがたい話が聞こえてくるようになった。僕のようにSNSをやっているのであれば、なおさらだ。


センシティブな内容であればあるほど、それを目にした人はなにかしらの感情を抱くはず。「ふざけんな」だとか「これくらいいいじゃないか」だとか。


同じように自分の周りの小さな世界でも色々なことが起こり続けている。ある人はそれと知らずにマルチ商法に手を出し友達を失ったらしい。またある人は信頼していた人からセクハラを受けたらしい。


でも、ほとんどのことがいつのまにか忘れ去ってしまっているはず。例えば、このブログを読みながら「ベッキーあのやろう」と思ってる人はいるだろうか。


どうでもよくなった、考えを改めてくれた、心から謝ってくれた。理由はなんでもあれ、おそらく人生を通して、死ぬまで怒り続けたままのことっていったいどれくらいあるんだろうか。


もちろん、その反面許せないことや許してもらえなかったこともいっぱいあると思う。でも、そういう経験があるからこそ、行動に責任を持ち始めるんだと思う。(巷の誰もが言うような自己責任論にはこれが欠けてるとおもつ)


少し逸れてしまうが、BAD HOPの『Life Style』のYZERRバースにある「昔殴って傷つけた中学の先生が言う 見てるよがんばれ」という一節はまさにトロイメライで歌われているような「赦す側」と「赦される側」の美しさがあると思う。

まさに「赦したこと」、そして「許されたこと」によって見えてきたいまがあり、未来があるように感じて、ついウルっとくる。

彼らが武道館を埋めてライブをできてしまうまでにはたくさんの普通の人以上に「赦し」があったはずだし、次はラップ音楽を通じて彼らが川崎という街に、そこでもがくヘッズたちに「赦し」を与えていくのだろう。(これ以上書くと、Kawasaki Driftの感想になりそう笑)


さて、「トロイメライ」の話に軌道を戻そう。ポップソングの世界にはいくらでも同じようなテーマ・表現はある。でも、それらとYUKIのこの曲には決定的な違いがあるように思う。それは「安っぽいメッセージや啓発に終わらない、ポップミュージックであること」だと僕はおもった。


例えば、「許してあげる」とか「好きに生きなよ」みたいな歌詞はたくさん聴いてきた。しかし、これらは甘えとか現実味のない夢物語みたいな産物がほとんどだったと思う。

大してYUKIトロイメライはどうだろう。「赦されていい」という表現には「赦されない」場合も想定されている。だからこそ、どこまでもリアリティを担保している。厳しさがある。


許されないことがあるからこそ、許しを乞う。許しを乞い、もがくことでさらに許されないことをしてしまう愚かな人々、そしてそれは他でもない自分かもしれない。そんなことが「トロイメライ」にはしっかり想定されていると感じる。


そして、「トロイメライ」は単なるメッセージではなく、音楽である必然もある。例えば、1番のBメロ「道草して~」からのYUKIの歌はAメロの歌と比べて噛みしめるようにゆっくりとしたトーンに変わる。ドラムの音と合わさって、重い足取りで出かける人、帰る人に寄り添うサウンドのようにも聞こえる。


それから、2番の壮大なサビあとのラスト「星に手が届きそう 夢みたい」「あなたを見つめてると 夢見たい」のあとにYUKIが「hey!」とパワフルに歌い上げるところ。これこそが「赦された」もしくは「赦されなかった」人のどちらも見捨てることなく、背中を押してくれる救いだと感じた。



冒頭の歌詞に「私たちはひとりぼっちを認めて 初めての恋をした」とあるように、一人で生きていけるならなにも「許す」なんて行為は必要がないのかもしれない。

「許すべき人」「許されるべきでない人」なんて本当は誰一人としていないのかもしれない。


と、そんなこんなで誇大妄想もはなはだしい感想を書いてきたわけですが(笑)、『forme』のトロイメライに次ぐリードトラック『やたらとシンクロニシティ』の歌詞にも少しだけ触れたい。


この曲の1番サビに「誰もが言いたいこと 言えたらいい」という歌詞があり、2番では同じフロウで「誰もが猫の手にも借りたいくらい 忙しなく歩く 月曜の朝も」と歌われている。


インタビューによると(YUKIforme」インタビュー|変幻自在なYUKIが自分自身へ贈る2度目の1stアルバム ...https://natalie.mu › ... › 特集・インタビュー)、「助ける側」と「助けられる側」は実はどちらも助け合っているというのがきっかけとなって曲ができたとのこと。


1番の歌詞だけ見ると、いわゆるマイノリティ、なかなか声を上げられない人たちに向けた言葉なのかと感じるが、2番まで聴くといわゆるマジョリティだって抑圧された現実の中を生きており、だからこそバランスを崩しておかしなことが起こってしまうというようなことが提示されているように思う。


これも特定のコミュニティに語りかけたのではなく、耳を傾けてくれるリスナーすべてに語りかけてくれてるのだろうと思う。

というようなことをヒトカラで考えてしまい、号泣したやばい人です。


本当に長くなってしまいました。最後まで読んでくださってる方いるんですかね?笑


ネットで「曲名 歌詞 意味」って検索予測で出てくるけど、本当に嫌いで。「音楽に意味なんて求めるな」と思うし、この文章を書く上でもいわゆるそういう文章にならないようにだけ気をつけました。まぁ、個人の感想なんですが。妄言なんですが。


YUKI歴は3年くらいなので、これまでの作品のこととかはあまりまだわかりません。ジュディマリもわかりません。BOXセット買ったので、聴きまくろうと思います。


YUKI最高!そして、ありがとう!