♯music(仮)

ディスコボーイ ディスコガール

Shinkai

猛烈に興奮している。


中学の給食時の放送である曲がすごく耳に残った。当時の自分が知ってるミュージシャンは彼女がよく聴いてたジャニーズ系くらいだったから、「嵐の曲?関ジャニ?」みたいな状態だった。


それから約1年ほど経ったある日のMステ。AKBにどハマりしてた僕はテレビの前で出番を待ってた。なんかよくわからない名前のミュージシャンの出番なんか興味ない。なーんて思ってたら、1年前に給食のときに聞いて気になった曲と同じものがテレビから流れてきた。


どうしてーーーーーーーーー!


なんかよくわからない名前のミュージシャンに目を向けた。サカナ+アクション。かっこよくはない。のちに6年もアルバムを出さなかったミュージシャンが「アクション」を造語にした名前にしてる。


どうやらアイデンティティという曲だったらしい。当時の自分はアイデンティティの意味もわからなかったから、これもよく分からない。なんだこいつらって感じで。しかも、前回Mステに出た時の曲名も「バッハの旋律を夜に聴いたせいです。」。長え。なんなら、前回はパソコンの前に立って歌ってたらしい。なんだこいつらと。


でも、なんだったんだろうと今でも思う。全く音楽に興味なんかなかったし、AKBはともちんと麻里子さま目当てに見てたし、ジャニーズは彼女と話を合わせるために見てた。そんな自分が「面白そう」と純粋に初めて思った。そして、「ちょっと曲聞いてみようかな」と初めて自分から思った。


「夜の踊り子」。跳ねた 跳ねた 僕は跳ねた

wow wow 小学生みたいに(サカナクション『夜の踊り子』)


なんだこの歌詞…愛してるとか恋してるみたいな歌じゃないじゃん…と思いつつ、かじりつくようにテレビを観てた。


何が衝撃だったのか。「跳ねた」なんて言葉を歌詞に使ってること。盛り上がってるところの後にさらにもう一段階盛り上がりがあったこと。自分には分からないことしかなかった。


その当時、自分でCDなるものを買ったことはなかったし、レンタル店があるなんてことすら知らなかった。本当に音楽とは無縁の片田舎に住んで、好きな女の子に会っては鼻の下を伸ばしてたような少年だった。


あけて土曜日。僕は珍しく早起きをして、自転車で20分。一番近くにあったショッピングモールにあるCDショップまで一目散に飛び込んだ。「サカナクション 夜の踊り子」と書いたメモを携えて。「ど、どこにあるんだ…?」10分かけても見つけられないバカ。のちにレコードショップでアルバイトをするとも知らずに。優しそうな店員さんに泣きそうになりながら、「これありますか?」と。やった!買う!あれ、CDってメンバーの写真が載ってるんじゃないんだ?


デュエル・マスターズ約8パック分のお小遣いをCDに費やして、人生初めてのCDを手に入れた。家に帰ってすぐに再生。当時はイヤホンすら持ってなかった。ずーーっと夜の踊り子を聴いてると、父親が「同じのばっか聴いてるな」と。うるせえ。邪魔すんな!反抗期。あの時はごめんなさい。(今でも父親は「本当にwow wowの曲好きだなー」と言ってくる)


というか、「夜の踊り子」のCD買ったのに違う曲も入ってる。これは地味だから聞かない!特に3曲目なんかは「僕の目」しか言ってないおかしい曲。(僕と花 sakanaction-Remix)


当時僕は放送部の女の子と付き合ってた。めちゃくちゃかわいかったのはさておき、放送部の人にリクエストをしてCDを持っていけば、曲をかけてもらえた。毎週「夜の踊り子」もっていって呆れられる。そして、放送が終わったらあの子が教室まで返しに来てくれる。サブスクリプション世代の諸君、これがおじさんの青春だ。


それから、半年後。ミュージックがリリース。これまた分からない。サビ「消えた」でめっちゃゴリ押すじゃんみたいな。めっちゃ聴いた。父親は「消えたのやつ」って言ってた。このシングルが発売された頃、よく遊んでた女の子が誕生日だったし、ワンコインシングルだったからその子の分も買ってあげた。まだ聴いてくれてるのかな。


と、次のサカナクションのアルバムに入る曲はそのときにまた改めてエピソードを書き散らすとして。いや、ようやく6年ぶりにサカナクションのアルバムがリリースされることが発表された。これにて3作連続リリースが完結する。(皮肉)


少し真面目な話を。僕はサカナクションから音楽を聴き始めた。そして、山口一郎さんが「深夜DJ」と謳ってTwitterで自身のフェイバリットを紹介されてるのを見て、サカナクション以外の音楽を聴き始めた。Floating Points、Manuel Tur、Tame Impala、Bibio、Bonobo…。


そして、音楽を聴くようになったからほかのカルチャーにも関心を持つようになった。インタビューで触れられた映画や小説、タイアップのついたドラマ、最先端のテクノロジー。どれも分からないものばかりだ。


大げさかもしれないが、音楽を聴いていなかった自分はどうだったろうと考えることがある。国籍、肌の色、性別、言葉、セクシャリティ、生い立ち、貧富、ドラッグ…。もっと厳しく突き放したり、考えようともしなかったのではないか。分からないものは気持ち悪いと考えてしまっていたのではないか。本気でそう思う。カルチャー至上主義です。


あえてマジョリティの中に飛び込んでいったがゆえに、「コアな音楽ファン」からは批判を受けたりもしている。ミュージックのパフォーマンスではクラフトワークのパフォーマンスを取り入れ、紅白直後のさらなるファン獲得も可能時期にリリースしたユリイカのPVは裸体をなぞらえるものだったり、宇宙のプロジェクトと手を組んだり。常にそれを知らないリスナーにとっては新しいものを取り入れてきた。アルクアラウンドなんかは明らかなセルアウト、マスを意識した作品だったと思う。それでも、PVで一仕掛け入れるなど。


サカナクションのインタビューを読む限りでは多少本当に自分たちがやりたいことというのを犠牲にしてきたところもあったのだと思う。マジョリティにはいくつもの制約が用意されてる。そんな中でも深夜DJから、本格的にNFというクラブイベントを行なったり、ライブMCなどいくつものメディアを通して、「踊る」ことに「自由」を付与してきたのが他でもないサカナクションだったと思う。性別、年齢、普段聴いてる音楽、そんなものは本当に関係ない現場を作ってくれた。


サカナクションに出会った人がD.A.N.に興味を持った、クラフトワークに興味を持った、レディオヘッドに興味を持った、そしてさらにその向こうに広がるどこまでも終わりのない音楽への地平にたどり着いたという話、レコードショップの店員さんからの話やネットなどでたくさん耳にする。


山口一郎さんがことあるごとに言ってきた「よい違和感」。実はそれこそが今という時代には求められるのではないかと思う。インターネットで検索すれば「答え」がいくらでも見つけられる、あわせて「答えらしきもの」にまで惑わされる時代。あいつが悪い、こいつが悪い、お前の自己責任だ、責任の所在を数にまかせて決めてしまえる時代。炎上したツイッタラーの顔、住所が特定できてしまえる、そして特定に沸き立つ時代。歌詞を検索すれば、それが何を表象してるのかがわかる時代。


もちろんナラティブは重要だ。ただし、果たしてそれを特定しておしまいなモノにどれだけの価値があるのだろう。多くの人が「答え」に安心を見出している。10年後じゃ遅い。今の安心が欲しい。そんな人にとって、違和感なんてのは壁でしかなく関心圏外になる。


「女性が就活で負担の大きいパンプスをなぜ履かなければならないのか」「最近の大学生はなぜこんなにもアルバイトばかりしているのか」「面接でお辞儀をするとき、なぜ男は手を前にしてはいけないのか。なぜ女性は前にしなければならないのか」


どこかに悪人がいるのかもしれない。でも、誰も分からない。だからこそ、ある人は無関心圏になって、ある人は変えなければと思い、ある人は常識はずれだと思う。途中からブスは黙ってろ、あのコメンテーターはいつも的外れなんてのも参戦してくるから厄介だ。


話が逸れすぎた。サカナクションは常に新しいことを追い求めてきた。サカナクションにとって新しいこと、そしてなによりもリスナーにとっては新しいことを。ロックバンドのライブにレーザーライトなんて当たり前のことだと思ってた。


「よい違和感」を「よい違和感」と感じた人はその違和感のありかを探して、サカナクションを細部まで聞くだろう。誰かさんは高校に行ったふりをして仙台のマックでひたすらサカナクションを聴いてた。そして、違和感に心地よさを覚えたら、次なる「よい違和感」を求める。こうやって、カルチャーは続いていくべきなのではないかと思う。


アジカンくるりのように、フェスを開いたり、新人賞を作ってフックアップしたり、メディアを使ったりといったものとも微妙に異なる「違和感」を提供してくれるサカナクション


分からないということは恥ずかしいことでも怖いことでもない。どこまでも美しく、素晴らしいことなんだと素晴らしい作品に出会うたびに思う。ceroのPLMSなんか分からなすぎて最高だ。


サカナクションを聞くと、分からないことに初めて感動したMステを見たときの自分を思い出し、懐かしくなる。こんなことを書きながら、Joni Voidって人も最高に意味がわからない。


サカナクション大好きです。アルバム楽しみに待ってます。就活の強いお供になるのも運命だったりして。


でも、欲を言えば6年は待たせすぎだ。